日本銀行初代総裁就任
読売新聞記事
明治十年(1878年)の春、松方正義は仏国博覧会事務副総裁としてフランスに
長期出張中であったが同時に不平等条約改正にも熱意を持っていた。
更には欧州各国を歴訪し、財政金融制度の調査を行い、日本銀行創立の構想を
温めた。特に仏国の大蔵大臣であったレオン・セイから中央銀行制度に多くの
示唆を得たのであった。
日本銀行が古い歴史的伝統により形成されたフランス中央銀行制度ではなく比較
的最近制定されたベルギー国立銀行制度を模範として創設された事は彼の助言
に負うところが多い。松方は彼に随行していた大蔵省の加藤済をベルギー国立銀
行制度の研究の為にブリュッセルに残した。
レオン・セイはロスチャイルド家第四代当主のアルフォンス・ド・ロスチャイルドの使
用人、あるいは番頭とも言われていた人物で彼の示唆によって日本に中央銀行
を設立した松方正義は、フランスのロスチャイルド家に見込まれて日本銀行を設
立し権力の中枢についた人物であるとも云える。
松方正義
レオン セイ
松方財政を支える
西南戦争の戦費調達のために明治新政府は不換紙幣を濫発した。
この事は西南戦争後に大幅なインフレーションを起こす原因と成った。
大蔵卿であった大隈重信は「積極財政」を維持し外債を発行して調達した資金で銀を購入し市場に出回っている紙
幣と交換し市場を安定化しようと考えたが、大蔵大輔の松方正義はインフレーションの根本原因は明治維新以来
の政府財政の膨張が原因であるとして、不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると主張した。
この松方の主張は大隈の財政政策を否定するものであり、大隈は激怒した。このため総理大臣の伊藤博文は松
方を内務卿に任命して対立の収拾を図った。ところが「明治十四年の政変」(1881年)で大隈が政府から追放
される事態と成り、代わりに松方が大蔵卿に任命されてインフレーション対策を行う事に成った。
この時、重俊は松方の元で不換紙幣を回収し焼却処分にした。
明治15年6月27日 日本銀行条例公布、同10月6日吉原重俊はその
初代の総裁に就任、重俊が38歳の時である。
同月10日を以て日本銀行は開業した。
副総裁の富田鐡之助は日本に創立される中央銀行の初代総裁として
吉原が適任であったことを断言している。
彼の言葉として、「因二記ス。吉原氏ノ人ト為リハ温和ニシテ人ト争フ
ヲ好マヅ。學才アリテ経済ノ道ヲ了知セル官吏中ニ、或ハ氏ノ右二出
ルモノナカラン。(中略)其地位ヲ得ルモ他二比較シ遅々タル也。藩閥
醜気ヲ脱落シ人ト交ルニ公平淡白ノ故ニ、藩閥壇権ノ輩ヨリ蔑視セラ
ルル風アレトモ、自ラ甘シテ意ト為サズ。却テ得意ヲ感シタルモノノ如
ス(仙台弁)。
吉原氏ノ性質此ノ如クナレハ、當時創業ノ統裁ニハ尤適當ナリ。」
開業当時の日本銀行
文化啓蒙活動
明六社
明治六年(一八七三年)七月にアメリカから帰国した森有礼が、福澤諭吉
・加藤弘之・中村正直・西周・津田真道・西村茂樹・箕作麟祥らととも啓蒙活動
を目的として結成したのが明六社である。
吉原重俊は格外定員、杉浦弘蔵は定員、S.R.ブラウンは客員だったようだ。
交詢社
当時の朝野の文化的名士を網羅して発足した交絢社の設立常議員にも選
ばれ、中上川彦次郎・由利公正らと名を連ねている。
カナの会
明治十四年から高崎正風、吉原重俊達は歴史的仮名遺を主張した「かなのとも
」を起こし、近藤眞琴、丸山作楽等が加わり明治十六年七月に「かなのくわい」
が結成され教育の場に導入する運動に乗り出した。会長には有栖川宮威仁親
王、副会長に吉原重俊、肥田濱五郎、幹事に高崎正風、丹羽雄九郎が就任した
有栖川宮威仁親王
由比ガ浜別荘
被占領下の肖像問題
昭和20年8月の敗戦に伴い、紙幣や郵便切手の図柄も大きな影響を受けざるを得なくなりました。
昭和20年11月と21年5月、GHQは覚書を発し、紙幣の図柄や種類等については、事前にGHQの承認
を受けさせると共に、軍国主義や超国家主義の指導者の肖像、国家神道を象徴する図柄は禁止するとしま
した。
当時の大蔵省金融局もすでにそのことを予想、新時代に即応する斬新な図案をということで一般公募の
コンペまで行っていました。そして昭和20年12月にGHQに申請したお札の図柄は、一円武内宿禰、五円
唐草模様、十円伐折羅大将、百円弥勤菩薩(当初大蔵省には、千円伐折羅大将、五百円弥勤菩薩という
計画もあったようですが、結局高額券の発行は取り止めとなり、この案で申請)でした。しかし、GHQから
は武内宿禰は軍国主義のシンボル、伐折羅大将は占領軍に対する怒りの表情、弥勤菩薩は敗戦国民の
悲しみを表現しているという言いがかりがつけられ拒否されてしまいました。
結局昭和21年新円切替後新しく発行された日本銀行券A券シリーズは、一円二宮尊徳、五円唐草模様、
十円国会議事堂、百円聖徳太子ということになりました。聖徳太子については、当時の一万田日銀総裁が
「平和主義者の代表」と懸命にGHQを説得された結果残すことが許されたともいわれています。
大蔵省は、更に昭和21年7月、GHQに紙幣の肖像の候補人物として20人を申請し、12人の許可を受け
ています。その12人とは、聖徳太子、貝原益軒、青木昆陽、二宮尊徳、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通
板垣退助、吉原重俊、福沢諭吉、夏目漱石、野口英世の12人です。
尤も占領下ながら昭和24年8月決定、25年から発行された日本銀行券のいわゆるB券シリーズは、必ず
しもこの12人に限られていません。即ち千円聖徳太子、五百円岩倉具視、百円板垣退助(独立後昭和28
年発行)でしたが、五十円は高橋是清となり、もう十円以下はコインとすることとされています。
しかし、このB券シリーズは、ドル券に似せたのでしょうか、いずれも従来の紙幣に比して横長になっていま
す。特に千円券について、その感を深くします。
明治18年に伊藤博文から大蔵卿の
内示があったが体が弱く迷惑をかける
といけないので松方正義に譲った。
吉原氏母堂(吉原豊子)口述筆記録による
黎明館展示 松方(前)と吉原(後)
吉原重俊 葬儀











日銀本店の2階の廊下の両側には、吉原重俊初代総裁から始ま
り歴代総裁の肖像画が掛かっています。関東大震災の時に当時
展示していた肖像画はすべて焼失したため、現在展示している
肖像画はその後再製されたものです。
吉原重俊(初代)、富田鉄之助(2代)、川田小一郎(3代)
、松尾臣善、三島弥太郎(8代)は、すでに故人であったため
写真から模写したものです。
日銀からの要請で息子の吉原重成氏が資料を送った時の借用書
が残っている。


鎌倉の由比が浜に吉原重俊の別荘があった事は親戚は誰も知らなかったが当時の海浜ホテルの近くに存在していた事が
島本千也著「鎌倉別荘物語に記載されている、明治15年以降と思われるが岩倉使節団が英国のブライトンに行った時に
海岸近くの避暑地を知った事が影響していると思われる.
吉原は左の地図の30番で隣は薩摩の吉田清成の別荘だった。松方正義、有島武、大山巌・捨松夫妻、津田梅子の別荘もあった。妻