岩倉使節団 1871.11(明治4年)〜1873.9(明治6年)
The Iwakura Mission


1871年の11月11日横浜を出帆し
米国、
英国、仏、独をはじめとする欧米14カ国の視察に出た。


岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允、佐々木高行他108名にものぼる大使節団であった。

大原令之助は紙幣印刷の監督のため駐在していたフランクフルトから1872.3.2国へ呼ばれ外務三等書記官として使節団に現地参加した。


米国大統領グラントへの謁見の2日前に
辞令がでるという慌しさだった。

岩倉使節団へ現地参加

随行辞令

グラント大統領謁見

岩倉使節団へ現地参加  

大使信報 123

大使信報(グラント大統領謁見)

岩倉使節団の現地参加組

新島襄

大原令之助

畠山義成

森有礼

岩倉使節団の中で薩摩藩は大久保利通と村田新八だけだった。

現地で大原、畠山が参加し森を加えて5名と成った。

新島、大原、畠山はクリスチャン、森もハリス教団出身だった。

森と新島がボストンで会うまでに、大原が中に立った事はなかっただろうか。

天皇の全権委任状 1872.3〜1872.7

  ワシントンで条約改正の予備交渉をするつもりでいたが
森有礼の勧
めもあって一気に本交渉をはじめようとした
ところ、国務長官のフィッシュから
「天皇陛下の委任状」
が有るかと問われ、結局大久保と伊藤がとんぼ返りして

東京まで取りに戻る事になった。


その間使節団はニューヨークやボストンなどを視察し時
間をつぶす事と成った。

NY
タイムスに記事が掲載されているが、このとき大原令之助は
大久保
に随行して日本に戻り、4ヵ月後再びワシントンを訪れた
しかし条約
改定交渉は中止となり使節団は英国に向け旅立っ
ていった。


大原は使節団帰朝まで英国に留まり、政体調査を行う事に成った。

本朝公信(書記官心得)
大使信報(大原令之助 英国にて外務取調を申しつけられる)

大久保は岩倉使節団の副使として米欧回覧中から政体取調書の作成に没頭していた。
大原を一人英国に残し外務事務調査にあたらせていた。

使節団と共に

1872.11.27 再度、英国へ戻る。


11.29
     ロンドンにて大久保、杉浦と共に外国債募集の為に滞在していた吉田清成を訪問。

12.2      再びパリへ戻り木戸、大久保、杉浦とともにパリ滞在。


12.13
     英国に戻った高崎正風を訪問


1873.1.9
   パリにて大原が木戸候にポートレート写真(カルテ・デ・リジッド)を渡す。


1874.1.11
  パレ・ロワイヤルにて大原の送別会が開かれ、大久保、村田、杉浦、鮫島、高崎が出席した。


1.16
     大原がパリを離れるのに際し木戸が大原に告別留守状を託す。


4.4
      英国より帰朝、その後裏霞ヶ関の松方正義邸を譲り受け居住した、現在の霞が関の文部省の

        建物があるあたりと思われる。

帰国前にパリにて

木戸孝允日記 第二 明治5年、6年

日本へ帰国

1872.8,24   三等書記官被免、以後随行心得を持って外政事務取調べの為、使節帰朝まで国に滞在を申付けられる


1873.1.11
   パレロワイヤルにて大原送別会、大久保、村田、杉浦、鮫島、高崎が出席


1873.1.16     
大原がパリを離れる、木戸が大原に告別留守状を託す


1873.2.17     
大原 英国発(推測)


1873.4.4       
大原 英国より帰着、裏霞ヶ関の松方正義邸を譲り受け居住

                      (麹町霞が関三年町、当時のロシア公使館の裏 現在の財務省(旧大蔵省)庁舎の敷地) 


1873.4.13     
大久保マルセイユ発


1873.4.19     
大原 外務省5等出仕


1873.5.26     
大久保日本帰着


1873.6.10     
大久保から重俊宛書状 太平海印度海


1873.9          
米国公使ビンガム横浜に到着 グランドホテルに滞在


1873.10.25   
外務1等書記官、米国公使館在勤を仰付られた(ビンガム公使の補佐か)


1873.11.18   
大蔵省5等出仕として勤務するも時々外務省に出仕

クリスチャン留学生達の沈黙

1869にフェリスはフルベッキに宛てて、薩摩スチューデンツが神学を学びたいと言い出しているのだがどうしたものだろうという質問をしている、それに対し1869.6.28付けフルベッキからフェリスへの書簡で

もし善きクリスチャンであれば国に帰り、官職を得て、国の為に有為の人材となる事が出来る。しかし、神学を学ぶと期待されている将来を台無しにし、帰国さえ叶わないかも知れない。

「留学する学生は、パスポートをもらって、外人に礼儀正しく、酒飲みすぎるな、尊敬の念を持ち、外人の先生に従え、宗教を変えるなという規則が課せられる」と伝えた。 

JMRCA,box737.3N,Verbeck to Ferris,29 June 1869

フルベッキやフェリスは彼らが官職を得て国の有益な人材と成る事を望んでおり、その為 にはあえてクリスチャンとして振舞わない方が良いと考えていたようだ。畠山、大原、吉田、折田達はこのアドバイスに従ったのだろう。

新島襄はアメリカンボードから派遣された宣教師であり、彼らとは異なっていた。

海外留学生規則 明治3(1871)1223

生徒上程前 神祇官へ出頭し、八神殿へ参拝し国恩報効の念を興し 
神酒を拝受して外教に汚染せざる誓いを立つべし 帰朝の時 またこれを還実すべし。


神道以外は禁止と成ったか。

ジョン・アーマー・ビンガム  

横濱グランドホテル       

築地居留地の公使館跡

米国公使館在勤

明治政府の官吏として

英国から帰国した重俊は1873419日に外務省五等出仕の辞令を受けて明治新政府の官吏とし

ての道を歩み始めた。


10
25日付けで外務省一等書記官として米国公使館在勤を仰付られた。


11
18日には大蔵省五等出仕、以後大蔵省に努める事に成ったが、条約改正の理事官として大蔵

省に関係する事件の調査を命じられ時々外務省にも出仕するように命ぜられた。


大久保は「明治六年の政変」後ますます日本の政体確立を急務と考え、吉田(清成)大蔵大輔と吉原

(重俊)租税助の二人に対して政体取調べを委嘱しており三者はしばしば集まって協議し太政官の職

制、三権分立、天皇大権、議会の組織等が話し合われた。


その後伊藤博文と寺島宗則が政体取調専任となったので大久保は吉田と吉原が作成した草案に加

筆修正して「立憲政体に関する意見書」を伊藤に対し提出した。

18739月、グラント大統領の命を受け駐日米国公使として着任し、18857月までの約12年間、その責務を担いました。
ビンガムが日本に着任した明治時代初期、米国大使館の名称は「米国公使館」でした。東京の米国公館長の正式な肩書き
大使が使われるようになったのは20世紀初頭のことです。ビンガム公使は 1873 年に着任したあと関内居留地の海
岸通り
20 番に開業した ばかりのグランドホテルにしばらく滞在し、1874 年(明治 7 年)4 月末または 5 月はじめに築地
居留地
1 番・2 番・21 番及び 22 番で構成される地所に移転した。

                       
                                            出典:明治時代の東京にあった外国公館 川崎 晴朗

大蔵省へ出仕

1874年に四国高松藩代々の漢学者赤井家の出で、安政二年六月二十日生

まれの赤井米子と結婚した。


これは当時の上司にあたる大久保利通の口添えだったようである。


彼女は当時としては非常な文化人であって、その残した逸話は少なくない。明

治の女子教育の中心とも云える東京女学校(竹橋女学校ともいう)で明治
5

から7年に教師をした米国人のマーガレットグリフィス(御雇外国人のW,E,

リフィスの妹)の日記にはヨネ・アカイという生徒の名前が度々出て来るが非

常に聡明であったので、授業中には「
Assistant pupil」として助教を務めて

いたと書かれて居る。


クララ・ホイットニー著「クララの明治日記」
(41)の中にも教会バザーの奉仕に

集まる婦人達の間でキリスト教の話になり、彼女は幼児洗礼に対して否定的

な考えを述べている。

台湾事件がおこり、西郷従道を将として出兵したが解決出来ず、大久保利通が全権弁理大臣を拝命して、1874

8
2日から3カ月、清国に出張して結末をつけた。


その時、重俊は横浜税関長を兼務していたが、三等議官の高崎正風やポアソナードと共に大久保に随行した。


大久保達の交渉の結果、清国が補償金五十万テールを支払うことによって解決した、重俊はメイヨール英国公使

館書記官と共に清国との条約文書の起草を行った。


清国からの帰途台湾に寄り、撤兵を指示して帰国した。


当時内務卿だった大久保は大蔵省に居た吉原に、事前に北京行きの船便の出港日の調査を依頼した書簡が残っていて省庁の枠を超えたチーム大久保として事にあたって居たようだ。

地租改正 1874 

明治政府は明治7年から地租改正に着手した。重俊は明治7年12月28日に租税権頭、翌年1月12

には租税局長に任命された。政府は明治8年に内務省及び大蔵省の両省間に地租改正事務局を設置

し、ここを中心として改租を強力に進めようとした。


重俊は同年5月
10日に地租改正局四等出仕兼務の辞令を受けた。


地租改正作業の過程では、伊勢暴動をはじめとした地租改正反対一揆ともいえる大規模な暴動が各地

で頻発した。


この地租改正は明治13年に耕地、宅地の改正作業が終わり約7年間の大事業も収束した。

理事功程 (租税権頭吉原重俊報告 外交関係事務調査書)

外交関係事務調査書

大久保の政体意見書 国立国会図書館蔵

岩倉遣外使節団の帰国後、外遊組の大久保利通

木戸孝允らと留守政府との間には、西郷隆盛の朝

鮮派遣問題、いわゆる征韓論の是非を巡る対立が

生じた。征韓派の西郷隆盛・板垣退助・副島種臣

らは、内治優先を主張する大久保らに敗れ、明治
6

1873)年10月に揃って下野した(征韓論の政変/

明治
6年の政変)。


政変後における政体整備は、伊藤博文・寺島宗則両

参議が専任となって行うこととなり、大久保は配下の

吉田清成・吉原重俊に作成させた意見書を参考として

伊藤に提出した。この中で大久保は、日本の風土・

伝統に適した「君民共治」に基づく国法の制定を唱えた。

熊本市田原坂西南戦争資料館 

熊本市北区植木町豊岡858-1

大久保利通日記 九巻

明治7年12月

紀尾井坂の変 明治11年(1878)5月14日

大久保利通

哀悼碑

条約改正交渉のためパリへ 1878年

1878.11.21に伊藤博文、大隈重信から要請を受けて仏郵船にてイタリアのナポリに上陸し、先ずイタリア政府の

条約改定に対する考えを聞いた。


その後パリに入り松方大輔に面会、その後英国との改正交渉の為に重俊が持参した外務卿の訓状が必要になり

急遽ロンドンを訪れることになった。


12.2
に松方と共にパリを発ち翌日に上野公使と面会。上野公使はその訓状をもって英国政府と条約改正の交渉

を行ったが、そもそも条約改正の交渉開始の一年前に書面でその趣旨を伝えてもらわなければならないと言われ

てしまった。


18
日に上野公使ともどもパリに戻り、ベルリンから到着した青木公使に訓状を渡し、今後の進め方について検討

を行った。

北京出張 1874

赤井ヨネと結婚 1874

明治1022日に「御用有之清国上海へ出張被仰付候事」との命を受けて石鹸市場調査という名目で上海に出

張を行った。


当時、まさに西郷隆盛が鹿児島で兵を挙げ、西南戦争が勃発する直前であり、大蔵大書記官、租税助という官職

の吉原が石鹸市場の調査に赴かねば成らなかったのか不可思議でもある。


更に
29日に三井物産の渋沢栄一、益田孝、大蔵省の岩崎小二郎、陸軍大佐の福原和勝、内務省お雇い外国

人のジョン・ピットマンが大隈重信の命を受けて、やはり上海に行っている。大隈はこの当時、清国から要請された

借款を政府直接ではなく三井物産に肩代わりさせようとしていたので、共に大隈の意向が働いた上海出張だと考

えられる。

大阪丸遭難事件 明治8

大阪丸は海軍省が所有していた船で明治812月某日鹿児島を出航し長崎に寄港し、1224日に長崎を出航し

東京へ向けて航行中に、上海へ向かう途中の三菱会社郵船汽船名護(古)屋丸と
25日午後820分頃に平群群

島沖の周防灘で折からの暴風雨の中で衝突し大阪丸は沈没し乗組員
66名中10名、乗客32名中14名が死亡した


その中に吉原重隆、重俊兄弟の母と従僕の小松利政が居た。


鹿児島から乗船した
14名、10家族の内5家族は政府の役人・軍人関係者だった。


明治
8年の秋には鹿児島在住の旧士族、軍人関係者の家族への風当たりが強く成っていたので12月から家族の

引き揚げが始まっていた。


重隆、重俊の兄弟も鹿児島の不穏な状況を察知して母と従僕を東京に呼び寄せたものと思われるが、不幸な結果

と成ってしまった。


吉原家の家系図もこの時に失われてしまった。


沈没した大阪丸には鹿児島から東京へ移送する目的で大量の武器弾薬も積まれていたが後の西南戦争の一因と

成った可能性がある。


大阪丸は慶応
2年英国で建造された440トンの鋼鉄船で明治2年政府が購入し戊辰戦争の際にも北海道で運送船

としてされた。


秋吉龍敏氏「大阪丸沈没事件」より

上海出張  1877.2.2

http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description08.html

西南戦争被害調査 1877年

西郷軍が熊本城の囲みを解いたのが明治10415日で、西郷が人吉に退却したのが427日である。大久

保は
425日に、部下の内務次官の林友幸と、大蔵省の吉原重俊に熊本出張を命じ、五十万円を支出して熊

本の兵害を補償させているのである、今の金額では六、七十億円位だろうか。


大久保書簡によると、始め五十万円を用意したが、戦災は思ったより大きく、百五十万円を用意するようにと、

大蔵卿に指示している。


内務次官の林友幸に大久保が大隈に掛け合って大蔵省の吉原をつけてやり西郷軍の通った後を不都合のな

いように補償して廻ったということは西郷軍の不評をそそぐのに大いに役立ったことだろう。


大久保の西郷に対する最後の友情だったかも知れない。

画面左側の随員の中に大原は居たと思われる

出典:国立公文書館

国立公文書館蔵