薩摩藩第二次米国留学生
Second Satsuma United States Students     

第一次薩摩藩英国留学生達十九名が串木野から密航した翌年の1866年更に五名の
薩摩藩士が英国経由で米国へ向うために長崎から密航出国した。


彼等五名の名前は、

 仁礼景範   幼名は平輔(1831?1900)   変名 島田カンイチ

 吉原重俊   幼名は弥次郎(1845-1887)   変名 大原令之助 

 湯地定基   (治左衛門)  (1843?1928) 変名 工藤十郎

 江夏嘉蔵   栄方、壮助、仲左衛門など(1831?1870)  変名 久松

 種子島敬輔  伴七郎(1844〜?)       変名 吉田彦麿

そして後発組の、

 木藤市助(芦原洲平),

 谷元兵右衛門(道之)

 野村一介(高文) を加えた8名が薩摩藩第二次米国留学生と呼ばれた

ここでは翌年に長崎から密航出国した重俊達の薩摩藩第二次留学生について先に述べ 1865年に串木野から
密航出国した第一次英国留学生については別ページにて述べる。

長崎から密航出国

1866年3月26日に乗船

彼ら5人の薩摩藩士達は前の日、湾内のポルトガル船に乗り込み船上で藩が依頼したロビネットという長崎在住の米国商人と合流した。
1866年(慶応2年)3月
28日、雨に煙る長崎の港から彼等は密かに日本を離れていった

大浦居留地の外国商館
長崎の上野彦馬写場にて
長崎の上野彦馬の写真館で撮影したと思われる。

彼は坂本龍馬や高杉晋作と同じ椅子に座りポーズをとっている。

長崎から出帆する為に髷を落とした直後の写真と思われる。

吉原重俊青年時代

吉原重和収蔵

仁礼景範航米日記 1866年)     

326日 ポルトガル船で長崎出航


4
1日  上海着


4
7日  書華堂を訪れる、大原が「天路指南」をもらう 


4
17日  ガラハ(グラバー)の家を訪れる。


4
20日  宇和島藩士達と会った。国元からの書状をもらい、万国公法を託す


4
28日  英国船に乗り換え、上海を出航


6
12日  喜望峰通過


93日  英国到着を前にフランス船と衝突


9
7日  ロンドン到着、畠山、森、市来と面会


927日  ニューヨーク到着


10
20日 ボストンに木藤を訪ねる


11
1日  マサチューセッツ州モンソン着


11
4日  モンソンアカデミー英語科入学

仁礼は上海で英国軍隊の訓練を見学して「嗚呼蕩々タル日本の

武国ヲ以彼ニ不及コト慨歎不堪憤怒、
幾年経彼ト時日ヲ同セシテ

宇内ニ武勇を輝サン。」と日記に記している。


仁礼はその後海軍中将、海軍参謀本部長、横須賀鎮守府長官、


海軍兵学校校長、東海鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任。


第二次伊藤内閣海軍大臣として海軍備の充実を図った

仁礼景範

上海にて 1866.4.1

長崎から出航したポルトガル船は上海の港へつき、上陸し

彼らはガラハ(グラバー)の家を訪れた。


宇和島藩の船も居た、ガラハ部屋付きの藩士も居たようだ。


大原達は
Presbyterian Board of Missionary Pressを訪


ねた


ここは美華書館とも呼ばれ、ブラウン、ヘボン達が印刷所と

て利用していた。


ここで大原は 印刷所へ何の気なしに立ち寄り
The

Heavenly Way
」の漢語訳である「天路指南」をもらい、


米国に至るまでの間に船中で
読んだ事によって彼はキリスト


教に向かう最初の宗教的衝撃を受ける事に成った。

美華書館  
チャペルも併設されていた

上海で英国船に乗り換え喜望峰経由で英国へ向かい更に米国へ向かった

英国到着

仁礼の日記には「我々は亭主の案内で馬車で学校へ行き畠山、市来、森へ面会した、互いに喜悦し直ちに引き連れて我輩の宿屋へ行った。

町田君の宿にも立ち寄り彼も同行、グランドホテルはロンドンにても一番立派なところだった、八階の誠に大きな家で吾は七階の二百四十番に住んだ。」と書いてある。

薩摩藩英国留学生達が学んだUCL

ニューヨーク到着 1866.9.27

到着後留学費用が支払われていない事を知り仰天し次の上海からの船で金を送らせる事になった。

仁礼はフルベッキの紹介状を持参していた。

重俊の日記にはFoggはホークと書いてある彼の死後財産はハーバード大に寄付されW.H.Fogg Museum of Artが創設された

UnionLeague NYの創立メンバーでもあった。

W.H.Fogg

China & Japan Trading Co.

J.M.Ferris

NYオランダ改革派教会総主事

R.Pompery

幕府の元お雇い鉱山学者

攘夷思想の喪失


彼等は薩摩藩きっての攘夷派の過激分子で吉原、木藤は寺田屋騒動に参加し、江夏は急進派を

討つ為に派遣された剣豪だったがボストンについた頃には攘夷思想は消えうせ、爪と牙を抜かれた

野獣のように大人しくなっていた。ー塩崎 智著「アメリカ知日派の起源」よりー


薩摩藩の上層部は攘夷思想の若者を欧米に派遣し、諸外国の文物を吸収させて将来藩の有用な人

材として活用したいと考えていたので、これまで上記の様な推察もされて来たが、明治維新で藩の留

学生のサポートが薄れていた間に、留学生として派遣された彼らは西欧文明の根底にあるのはキリ

スト教であると信じてあえてその中に身を投じていった。


単に攘夷思想の喪失というより、彼らはもっと積極的に西洋文明社会の本質にせまりたいと考えた

ようだ。


長州ファイブの西洋の科学技術を習得したいとするアプローチとは異なるのが興味深い。

マンソンアカデミー

マサチューセッツ州マンソンにある全寮制のイエール大入学の予備校。

S.R.ブラウン牧師の母校でもある。

ウェスリアンアカデミーと合併して現在はウィルブラハム&マンソン・アカデミー

新島襄 と 吉原重俊 の出会い (ボストン近郊にて)

新島襄 23              

吉原重俊(大原令之助)21

P.53

昨年十一月、薩洲侯のご家来六人程ニューヨルクへ到着致し、その内一(吉原重俊)当所へ参り、
小子を尋ねくれ候


「新島襄の手紙」より

1866年 1118673ごろ

アーモスト大学にて

天路指南

ニュ-ヨークのメトロポリタンホテル

大学構内

新島密航時の再現

太原と湯地が止まった泊まったホテル

1866116日付けニューヨークタイムス

木藤市助(芦原洲平)がマンソンアカデミーに入学した時の記事。

ハモンド校長に英語を習ったが、後に謎の自殺を遂げる。

仁礼景範航米日記によると村人が総出で芦原の行くえを探したとある。

186971日にマンソンアカデミーの

卒業式において大原令之助が“Japan 

as it Was and Is“ 種子島敬輔

が”Introduction of Christianity into

Japan”というスピーチをした事がNY

タイムスにて報じられている。

モンソンはボストンから西へ90キロ離

れている。

ボストン近郊のアンドーバーの神学校に留学していた新島襄は密航留学の身なの

で、幕府関係者との接触は避けていたようだが、同じ密航留学生であるマンソンの

薩摩藩留学生達とは手紙のやりとりや、お互いに行き来をしていたようで、その目的も

お互いにキリスト教への理解を深めようという意思の元で行われていた。

121 High Street New Heaven(これは119番地の写真)

太原が住んだ家

Gibbs教授について

太原が住んだのはイエール大学の流体力学の権威だったJ.W.Gibbs教授の家だ

った。
121High street に有った邸宅に娘婿のAddison Van Name一家と一緒住んだ.

Van NameはYale大卒でYale大の図書館を作った事で知られている。

このGibbs教授の父親もイエール大学の宗教学の教授で1842年にボストンで創立さ

れたAmerican Oriental Societyの創立者でもある。会員にはYale大の学長の

T.D.Woosley、教授のW.D.Whiteny,コネチカット州教育長官B.G.Northropが居た。

J.W.Gibbs

AAddison Van Namees