吉原重俊は一八四五年(弘化二年)四月十日鹿児島藩士の吉原元珍の

次男として鹿児島の西田村之内字常盤で生まれた

母の名は留以と言い、四人兄弟(長男重隆、長女貞(天折)次男熊次郎

(天折)の末弟であった

幼名を藤次郎、のち彌次郎と称し、二歳の時に父の元珍を亡くし、十三

歳年長の長男重隆に厳しく教育されて成長した。幼くして藩校造士館に

学び、既に
8歳の頃から秀才の名が高かった。

十五歳では造士館の句読師助に挙げられたという。

安政4年の春に重俊は造士館に於いて、学芸が秀でた故を以って、扶持

米四石を給せられるようになった。

寺田屋騒動 文久2年4月23日(1862)

維新は寺田屋の一室から生まれたり」と言われるように、薩摩藩討幕急進派が京都

伏見の船宿、寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」として知られている。

若き重俊は攘夷派の志士として参加した

庭の前には寺田屋騒動で散った薩摩九烈士の碑や坂本龍馬の銅像などが建っている

ここは坂本龍馬の定宿で、おりょうさんとの恋の宿でもあった

当時の建物は戊辰戦争で消失したが、明治時代に
建て替えられた
寺田屋の藩士達は

有馬新七以下6名が死亡、2名が重傷を負い、鎮撫側は有馬と共に突き刺された道島

のみが死亡した。寺田屋に集まっていたその他二十二名の薩摩藩士達は、熱心に説得

され国許にて謹慎する事になった
.

大久保利通日記に載っている二十二名の薩摩藩士の中に
吉原彌二郎
(重俊の幼名)

の名前も記されている。


大久保利通日記 一巻

薩英戦争(Satsuma-England War) 文久3年6月27日(1863)

前年8月の生麦事件が原因となり、翌年薩摩藩はイギリスと戦う事になる。

西瓜売りに化けた薩摩の者が、陸からの空砲を合図に、イギリスの軍艦に乗りこみ

イギリス人を斬り船を奪い取るという計画であったが、イギリス側に見破られ失敗

に終わっている。重俊も大山巌等と西瓜売り決死隊に参加した。

薩摩藩外国留学生派遣構想


安政四年島津斉彬による英米仏への留学生派遣構想があった。

五代才助は 「五代才助上申書」で上海貿易と海外視察団、留学生の派遣を提案、グラバーも関与か。

慶応元年9月に黒田清隆は海外留学で人材育成を図り西洋の進んだ軍事、科学技術修得を図るとする「海軍修業

奨励に関する建言書」を出した。


英国の新聞記事には「彼らがキリスト教の諸原則を学び、また社会生活と国の政策に対して及ぼしている、それの

好ましい影響をも視察する機会をもつ事である。」という英国側の希望が記されている。


英国が意図する自由貿易体制へ日本を組み込む狙いがあったと考えられる。


結果として幕末期において延べ
25人が英米仏へ派遣された

薩摩藩江戸遊学生


幕末の江戸は各藩の藩邸や私塾を中心に各藩の藩士、浪士、そして藩から派遣された遊学生達が入り乱

れて情報収集に当っていた。


これまで薩英戦争後に大山巌、吉原重俊、木藤市助などの寺田屋騒動に加わった攘夷派の志士達が藩か

ら遊学生として江戸に送られていた事は判ってい
たが、彼らが江戸で何をしていたのかは不明だった。


しかし最近に成って
4名の薩摩藩江戸遊学生が海舟の塾生だった事実が東北学院大学経済学部の高橋教

授の論文「幕末維新のアメリカ留学と富田鐡之助〜「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀総裁」富田鐡之

助〜」に記載されている事が判り、思いがけず勝海舟や富田鐡之助との接点が見えてきた。


彼らが江戸でまさか勝海舟の塾生だったとは思いも依らなかった。


そして薩摩藩の南部弥八郎は米国留学予定の薩摩藩遊学生を横浜に送り英国艦隊の動きなどの情報収

集を行った


彼は
得た情報のとりまとめを行って「南部弥八郎報告書」として藩に報告を行っていた。

宣教師 S.R.ブラウンに出会う
S.R.ブラウン (1810〜80)
オランダ改革派教会宣教師
グイド・フルベッキ サミュエル・ロビンス・ブラウン ダン・B・シモンズ   

あや

武田斐三郎に英学を学ぶ


武田斐三郎は日本のレオナルド・ダビンチとも称された人間で、函館

の五稜閣の設計者としても知られている。
武田が英学を教えた函館

諸術調所は
榎本武揚、前島密や井上勝そして山尾庸三も学んだ場

所である。


武田が文久二年に蝦夷地の鉱物探査で同行したラファエル・ポンペ

リーという御雇外国人の地質学者に重俊は後にニューヨークで会う事

になる。


新島襄は武田に教えを乞うために函館を訪れたが、彼は江戸開成所

の教授として江戸に出てしまっていた。


そこで新島は函館から密出航をしたとされている。


この時重俊は江戸で武田から洋学を学んだ。

勝海舟と氷解塾


嘉永
3年 赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。


万延元年 咸臨丸で渡米


文久
2年 坂本龍馬が入門


慶応
4  江戸城無血開城


氷解塾というのは海舟が赤坂に開いた私塾の名前で、幕臣である海舟は薩摩藩とも良好な関係を維持してい

たので多くの薩摩藩士が彼の許を訪れていて情報のやりとりを行っていた。


氷解塾に
種子島啓輔、吉原重俊、湯地定基、桐野英之丞4名の米国留学候補生が学んだ。


この塾では海舟が直接教える事はなく、各藩の遊学生達の情報交換の場所だったよう


後の日本銀行副総裁の富田鐡之助も塾生だった。


他には
大山弥助、木藤市助、谷元兵右衛門、山田孫一郎、竹内健藏、伊東次右衛門、林正之進、坂元彦右衛

門、深見休蔵、黒田了介
10名が江川塾で砲術を学んだ

海舟日記の変遷

海舟日記には下記のように記載されている。


元治
2213日 薩藩4人入


慶応2121日 薩藩国元江出立之由にて退塾4人、種子島・湯地・吉原・桐野4人


       122日 薩藩 西郷信吾帰国乞暇として来る、小松江一封


       
  123日 柴山良介(薩摩藩士)来る


     
   125日 岩下佐次右衛門(薩摩藩家老岩下方平)来る…


海舟が書き残した海舟日記は、文久2(
1861)年8月〜明治311898)12月までの長い期間の日記で以下の異なる


存在する。


改造社版
は明治40年に刊行され梶梅太郎(海舟三男)・巖本善治の編集により出版された。


幕末
の文久28月〜慶應4年6月までを採録してる


海舟
自身が取捨選択の判断をしたとも言われており、この期間の日記全文ではなく、「抄」とされている。この版で


薩摩藩
塾生の件は全く触れていない


改造社「海舟全集 第9巻」が昭和3年に同じ内容で刊行された


更に昭和47年〜48年に勁草書房版、昭和51年
講談社版が出版されこの版では薩摩藩塾生の件が追加され


4
名の薩摩藩遊学生が元治2213日に入塾し、慶応2121日の薩長同盟成立に時をあわせて退塾したと書かれてい

海舟日記ー小松帯刀日記ー野村盛秀日記

薩長同盟と寺田屋事件

上の3人の日記をつなぎ合わせて見ると以下のように成る


慶応
2


1
21日  薩長同盟成立、同じ日薩摩藩4人退塾し国元へ 


1
24   寺田屋事件 龍馬襲われ薩摩藩邸に匿われる


1月25日  四時ボードイムに桐野氏一同差越候(長崎にて)


3
4    小松帯刀、西郷隆盛、桂久武、吉井孝輔、坂本龍馬、お龍、三吉慎蔵達が藩船三邦丸に乗り翌5日大阪を出港       


3
7    夜 馬関(下関)寄港 三吉は下船


3
8    長崎寄港

3
9日  今朝フルベッキへ仁礼、江夏、林泉三同列その他談判に行く


3
10  小松、龍馬夫妻、桐野 鹿児島着


3
11日 喜入氏森氏とフルベッキへ差越候


3
12  夕刻 湯地と吉原が入来

314  小松は霧島温泉で保養、龍馬夫妻は塩浸温泉へ、湯地、種子島から大阪から長崎へ到着したとの書状を海舟が受 け取る

3
20日 九前山田屋にボードイム参り候付喜入氏森氏と出会い夫れより林三同伴江夏仁礼氏福地氏吉原氏喜入氏と

       ロビネットに差越候帰りに
フルベッキに参り遠航一条相話し八田先生愉託之一条相頼先生の送り物神代系図

       一巻差候処大に喜び候,同人よりも先生に一冊差出度との事。


322日 蛍茶屋にて送別会

3
26日 市来氏が永福庵でご馳走した。

3
28日 ガラバ船にて帰り候、密航留学生達もこの日出帆した

坂本龍馬とお龍は鹿児島の塩侵温泉に滞在した。本初の新婚旅行と言われる。

塩侵温泉の龍馬とお龍の銅像
写真の7名が藩船三邦丸に乗船し大阪から長崎経由鹿児島へ向かった。

重俊達密航留学生も長崎へ向かい合流した
大阪からは同じ船だったのかも知れない。

西郷、小松達が長崎に向かうのと時を同じくして吉原達薩摩藩第二次米国留学生たちも長崎に

向かったのは見事な連携プレーと言わざるを得ない。

西郷、小松たち

薩摩から江戸へ

小松

現在の常磐の様子
鹿児島中央駅の近くで薩英戦争の時の本陣跡にも近

西郷隆盛

小松帯刀

お龍

吉井孝輔

坂本龍馬

桂久武

三好慎蔵

桜島


薩英戦争での働きに対し、重俊も功を賞され金弐両と感謝状


を藩老中小松帯刀から授けられた。


尚、この戦争の結果、薩摩藩は英国から進んだ技術を取り込


む為に留学生を派遣する建議が五代友厚らから為され英国人

グラバーの支援を得る事にも成った。



薩英戦争後に吉原弥次郎(重俊)は大山弥助(巌
と共藩から選ばれて

江戸に遊学する事に成った。


大山は江川太郎左衛門の下で砲術の勉強に励んだが、重俊は英語を習

う為に、当時横浜の居留地で英語を教えていた
オランダ改革派教会宣教

師の
S.R.ブラウンの横浜英学所に通う事に成った。


彼、
Samuel Robbins Brown1810年、米国コネティカット州のイースト

ウィンザーに生まれた。母は讃美歌307・319番の作者として知られる。


マンソンアカデミーに学び、
1832イエール大学を卒業した彼は中国を

経て
フルベッキやシモンズと共に1859年(安政6年)に日本の地を踏んだ


NYのオランダ改革派教会海外伝道局から日本に3名の宣教師が派遣される事になった。当時Owasco Outlet教会で一緒だったフルベッキに声をかけ、フルベッキは同じ教会員だったマリアと慌ただしく結婚して日本へ向かった。フルベッキは近くのAuburn神学校に居たがこのOwasco教会で奉仕したとされている。彼はザイスト時代に聖歌隊に属していたのでブラウンが指揮していた聖歌隊のメンバーだった可能性が有る、先唱者あるいはオルガン伴奏者だったのかも知れない。フルベッキの妻マニョンもメンバーだったのだろうか。同じ教会員だったキダー女史はその後ブラウンに伴われ来日しフェリス女子学院を創立した。

薩藩海軍史